夕刻、決まってわたしはいつも茶屋のエプロンをつけたまま急いで店外に出た。
空は茜色が群青色の中に消えかかりそうに入り混じっていて、一番星は既に輝きだしていた。正午までは日が差してまどろみそうだったのに、今ではそれの気配はない。思わず手を擦り合わせていた。
ここは表通りとはいえど、江戸の外れにあるので、辺りが暗くなり始めてからは人通りは殆ど無い。寺子屋の子供達のが先刻帰路に通ってからは、あたりはしんと静まり返っていた。

、早く店の暖簾を片付けておくれや」

「あぁ、すいやせん」

わたしのいつもの恒常的な最後の仕事。物心つく幼い時からずっと行っていること。拾われの身だから仕方が無い、それでも飯にありつけるだけましだ。
店の暖簾に手をかける、継ぎ接ぎだらけの汚れた蘇芳色の布。古い部分は所々色落ちしてささくれ立っている。それを持つ手も、皸をしていてボロボロで泣いていた。冷たさが指先から身体に響く。まだ秋でこんなに寒いのだから、薄手着物一枚じゃ今年の冬を越えるのは凄くきついだろう。今年は地税が引き上げられたらしいので、厚手の着物をねだることは到底無理だろう。溜息混じりに息を吐いた。
お寺からのゆっくりとした鐘の音がひとつ、空気を震わせた。
あ、彼が来る。わたしの心は目を見開き待ち構えた。この鐘の音がなった頃、澄ませばまた音がやって来る。吐いてしまった溜息を大きく吸った。
三、二、一。

カラン、カラン。

底厚の下駄の音。暗い道の奥から、煙草を吹かしてゆっくりとこちらへ向かってくるシルエットがぼんやりと浮かんできた。透き通るような白い肌に、射抜かれそうな鋭く深い瞳。朱色の独特の化粧、月の色をした髪。大きな背中の薬箱。身なりからして高貴な身分の出か、それらを相手にする薬売りなのだろう。吸い寄せられそうな美しさは、この世のものとは思えない。
貧しい民家が立ち並ぶこの町には、あまりにも眩しすぎて浮いて見える。
彼は二週間ほど前から見かけるようになった。毎日この道ををこの刻にきまって通る。初めて彼を見たときは、わたしは仕事の手を止め魅入ってしまった。
きっとわたしは恋をしているのだろう。一方的な一目惚れ。彼は通るときに一目と此方に目を向けてくれたことはないし、わたしは彼の名前すら知らない。もう少し暮らしが裕福で、洒落た綺麗な身なりが出来たなら、彼はわたしを視界に入れてくれるのだろうか。わたしは彼に声をかけれるぐらいの自信はあったのだろうか。
暖簾を仕舞うふりをして横を過ぎるをにちらりと目をやる。ふわりと薬草まじりの香りが鼻を掠める。目の前に視界に彼の袖が去ってゆく様子が見えた。そう、一瞬のことだけど、わたしの中ではコマ送りのように映る。
わたしのような身分のものが、眺めていられるだけでも幸せなのかもしれない。
明日も彼のことを眺めることが出来ればいい、そう思って視線を元に戻し、暖簾を待ち上げたままの腕を下ろした。

「随分と、力持ちなんですね」

突然と艶やかな声が耳元で聞こえた。風が吹くと共に、独特の香りが辺りを包む。銀色の毛先が頬に当たる。

「はっ・・・はい・・・幼きころからずっとやっておりますこと故に・・・」

頬から足の爪先へ広がるように熱が駆け抜けてゆく。鼓動が速くなる。後ろを振り返りたい、しかし身体を取り巻く重力がそれを赦してくれない。暖簾を掴む腕が力強く小刻みに震えた。

「幼きころから暖簾を持ち上げたままの姿勢で暫く動かぬよう言われたのですか?」

思わず言葉を返せない。くすくす、静かにそれを見て笑う。笑う度に口元から漏れる吐息が耳にかかる。
わたしは彼を見かけた二週間もの間ずっとその行為をしていたのだ、自分のまぬけさを死にたいぐらいに恥ずかしく思った。
そして言葉は続く。

「・・・毎日あなたを迎えに来ていたのですよ、ただあなたの方からはちっとも来てはくれません。だから迎えにきたんですぜ」

彼の手が優しく頭に回された。
わたしの手から暖簾は滑り落ちて、からん、と乾いた音が地面に叩きつけられた。
乾燥していた唇を、彼の温かい唇で覆われている。無理矢理後ろを向かされた首が、少々痛い、なんてことを考えている暇など無かった。息苦しい、頭がぼうっとする。瞼が重く重くのしかかり、ゆっくりと目を瞑る。
朧な雲の合間から月明かりがやんわりと照らしてくれているのを、閉じた瞼からでもわかった。

「さぁ、おいで」



*



全ての人が寝静まる呼吸の音が聞こえた。わたしは彼に手を引かれ、一歩一歩住み慣れた町を遠のいてゆく。気温はとても寒いはずなのに寒くなんて無かった。彼と絡める指から伝わってくるぬくもりは、なんだか懐かしい気さえした。
わたしはこれから彼に愛されるためだけに全てを捧げる。今まで感じたことのないこの満たされた気持ちは、溢れる涙と嗚咽によってわかった。
ねぇ、薬売りさん、迎えに来てくれて、ありがとう。