彼が寵愛しているときの表情はとても幸福に見えて幸せそうだった。―――ちゃん、だっけ。彼女を寵愛すれば僕もあんな表情が出来るのだろうか。寂しくて寂しくて仕方のない心臓が抜けてぽっかりと開いたこの穴に、代わりの心臓を埋めてくれるのだろうか。孤独な雪を止ませてくれるのだろうか。脈拍が上がる、欲しくて欲しくて堪らない気がしてきた。僕を寂しくさせるのはいけないんだよ。

目を覚ますと、頭をぶち破られる感覚が襲う。まるで脳細胞から脳細胞を太い針金で突き刺され頭蓋骨を突き破られた気分だ。普段使い慣れたベッドに横たわっている、体を起こそうとしたらぐるぐると視界が回転した。これは酔いだ。辺りは薄暗い、時刻が知りたい、ベッドの隣にある筈の電気スタンドに手をのばそうとした。が、それは叶わなく空を切りベッドの下へと転倒した。その衝撃で頭に余計響いた。ぼんやりとしていた思考が一つに集合し始める。
何故酔いつぶれているのだろう。
記憶を辿りたいが思い出そうとするとその経路内での伝達を針金が刺し殺す。思わず呻き声を垂れ流してしまった。

「大丈夫?やっぱりウォトカは度数が高いからねぇ。馴れてない人はなんかつらいみたい」

お水をどうぞ、と手渡される。ゆっくりとした速度で瞳の焦点が合うとそれはロシアさんであった。ここはわたしの家、彼がいるはずがない。夢の延長だとしたならばこの現実味を帯びた頭の痛みは実に良くできている。彼は察するように横たわる酔いつぶれを見下ろし笑顔を見せた。

「あのね、ちゃんが欲しいなって。抵抗されたら嫌だし、だけど縛るのはちゃんが痛いでしょう?だから僕のお土産のウォトカで少し潰れて貰ったよ」

徐に馬乗りになって優しくその大きな手で髪の毛を撫でつける。お腹には圧力がかかり窒息しそうに息苦しくなった。手で退いて下さいと払いのけようとしてもうまく標的に当たらない。それどころか腕の肘からの出先は力が入らない。
そんな無力な姿を見て、嬉しそうに笑みを零す。まるで捕まえた蝶の羽をもいでその様子を無垢に楽しむ子供。雪に閉ざされ長年光を受けなかったその青白い肌は血が流れていないように映った。
少しずついたぶるみたいに顔を近付けてきて。かろうじて顔を横に反らすが、左手で両頬を捕まれて正面を向かされる。静かに、しかしぎちぎちと力のこもったそれはとてつもなく痛い。

「あのねぇ、君を見ているイギリスの顔幸せそうなんだ。だからねぇ、僕も君があればそうなれるかなって」

無茶苦茶な理論、ただこの人は本気でこの考えを信じてる。どこか冷たい彼の全ては体から心から、全ての熱を奪い取っていくようで。

「だから、ちゃん、君を頂戴」

体を覆う影はどんどんと大きくなって、抵抗の気力さえも蝕んでいくみたいだ。
この恐怖、まるでこれはあのときのようだよ――アーサー。
唇を重ね犯されているときに、脳内を熱が通い、炙り出しのようにある写真がモノクロで浮かび上がり焼き付けるようにこびり付いた。もっとも心に傷を負った惨劇の写真。しかしそれは沢山のノイズがかかっていた。嫌だ嫌だ、思い出したくない!恐怖に煽られる、心の奥底にそれこそ鍵を掛けて忘れようとした記憶のピースがめまぐるしいでそのノイズを消して正しい形に直していく。

「きゃぁあ゛いゃぁがぁああぁあ!!!!!!!!!!!」

「!?」

体が激しく震え痙攣する。呼吸のリズムが取れない。思考が上手く回らない、消しゴムで頭が消されて、全て空っぽになっていくようだ。

「何?…どっ…どうしたのちゃん」

いきなり、本当にいきなりのことだった。彼女の体は大きく跳ね上がり、そのままひくひくと硬直するように痙攣した。
そう、ただキスをしただけ、ただ口付けしただけなのに。どうしてそんなに拒絶するの、そんなに嫌なの、僕を嫌がるなんて赦されないことだよ。
ひやりと汗をかいた、伝染するように僕の手も震えていた。
やだ、やだ、独りはとてもコワイ。

「やめて!!やめてよ!!」

彼女の瞳には僕は映っていなかった。薄暗い深い深い底の無い色、彼女の視界は全ての世界を黒い炎で焼き尽くし全ての色を奪い尽くしていく。
どうしようも無い事態に僕の手は自然と彼女の首に這っていった。その細い首は片手でも十分だろうと思われたが、僕は二本の手を伸ばした。
そうだよ、僕を拒絶する子なんて消えてしまえばいいんだよ。
少しずつ力を加えていく、ぎちぎちと音を立て柔らかい肉の感触を確かめながら味わう。必死だった、だけど彼女の痙攣は止まらない。

「うわぁぁ、死ねぇ。死んじゃえ!」

叫びながら彼女を見ると、真っ暗いそこから涙を流しながら微笑んでいた。口がパクパクと動いていてなにか喋っているのだろうが首を締め付けられているせいで声が出ていない。
すると力の入るはずの無い彼女の両腕がすっと僕の頭に回り、考えられないほどの力で引き寄せられた。必然的に胸へダイブする形で抱き締められる。
その瞬間はコマ送りのようだった。
僕は気付いたのだ、そこにはとくとくと波打つ小さな心臓の鼓動があるのだ。
そのまま腕は優しく頭を撫でてくれて、だんだんと登った血が冷めていくのがわかった。
力の抜けた手をそのままか細い背中に持っていき、強く抱きしめた。悲しいほどに僕は涙を落とした。嗚咽まで出てきたよ。いつの間にか彼女の痙攣は止まっていた。
子供のようにしゃくりを上げて泣く僕に、歯車が欠如して壊れたオルゴールのような、永遠とエンドレスで繰り返されるカセットテープみたいな、そんな声が鳴り響くように再生された。

「―――泣かなくても、いいんだよ。あなたは寂しいだけなんでしょう?あなたはわからないだけなの、まだわからないだけなの」

彼女の瞳は相変わらず真っ暗なままで、口元も微笑んだだけだった。それを見ているととても痛々しく見えてきて、申し訳ないという気持ちがこみ上げてきて目が腫れ上がるまでまた泣いた。僕が再び落ち着いた頃には、眠るように人形姫は気を失っていた。

きちんと身なりを整えて上げて、優しくベッドへ戻してあげた。そして涙のあとを拭ってあげて、優しくおでこにキスをした。
今度は僕の身なりを整えていつもの格好をしたら、部屋の中にあったメモ帳と鉛筆を拝借してグリグリと力強くハートの絵を描いて彼女の枕元に添えた。

「酷いことしてごめんね、それじゃあ」

僕は玄関を飛び出すように出た。外はよく晴れていて、なのに雪が降っていた。いや、違う、雪だと思ったのは空高くにある木から沢山舞い散った白い花の花弁であった。
僕は空港に着くまでに、並木道になったそれをくぐって進んだ。降り注ぐように落ちるそれは、雪よりももっと脆く儚いモノに映った。